07.30
Thu
こんにちは。

先日、Fさんという方から、嬉しいコメントを頂きました。

その深い考察を読ませて頂きました。

今回はこれについて、書かせて頂ければと思います。



まず始めに、Fさんからのコメントをそのまま引用させて頂きます。

なかなかこういう意見を頂くのもないので…、というより、とっつきにくい話でもあるし、
マユツバ的な内容でもあるので。

> 「壁の向こう側」とは、この記事において痛みが快楽に変わる状態をそう呼ぶこととします。
> この「壁の向こう側」に行くには、記事に書かれているように、「壁まで近づく」ことと「壁を乗り越える」ことの、大きく二段階に分けられると思います。



この点については、近づくというアプローチも大変重要なのですが、一番は「壁を越える」ことになります。
その次に「壁に近づく」手段を考えるということですね。


> 「壁まで近づく」手段として、
> ①セックス(前戯)
> ②辱め
> がこちらの記事ではあげられます。
> その過程において薄れてゆくものは、自我であったり、羞恥心であったり、理性であったり、単に意識と言ったり・・・、目に見えない心の状態を言葉にして表現すると無数の表現が考えられます。


近づく手段は千差万別あると思います。
Fさんの挙げられた内容の他に、痛みというのも追加されます。
薄れてゆくものという内容に関して言えば、多分理性だけなのだと思います。
それ以外については、しっかりと残っているものと考えています。
でないと、自分が誰であるかということすら忘れてしまうということですから。


> ここではひとまず「イシキ」と表現させてください。


この「イシキ」というトコロが表現として難しいトコですね。

どんな人でも、他人には知られたくない秘密とかがあると思います。
それが性に関する事であれば、なおさら隠すことになると思います。
「複数の人に犯されたい」
「ギチギチに縛られたい」
「足の指を舐めたい」
「ワキの下のすっぱい臭いが好き」
「自分自身で自分をイジメルのが好き」
「全身にウ○コを塗りたい」
「語主神様に仕えて、奴隷となって生活したい」
ま、こういったフェティシュな趣向は隠しておきたいのが、普通だと思います。
普通に考えると、こういった人たちは「キチガイ」と言われるでしょう。

でも「キチガイ」と言われる理由は、そういう考えを持っている人を卑下する風潮があるからではないでしょうか?
自らを人間という高等な知能を持ったものと思っているからではないでしょうか?
知能があるからこそ、他人の目を気にする、他の人とは違ったことはしないという考えになってしまうのだと思います。

その本能を止めているのは何かと考えると、多分、「理性という心のブレーキ」というのが働いているのだと考えます。
これを働かせることで、先ほど挙げたものを抑制して、さも普通を装って生活できるのだと考えます。

この「理性という心のブレーキ」が、「イシキ」に一番近い表現ではないかと思います。


> 「イシキ」をなくすにつれて(「興奮」させて)「アタマが真っ白」に近づく。
> 主観が入りますが、①セックス(前戯)は「アタマが真っ白」に②辱めは「興奮」にだいたい対応すると思います。
> また「イシキ」が薄れてゆくことは「アタマが真っ白」に近づくことと思います。


「アタマが真っ白」にする手段として、セックスを用いるというトコは、私の文章の拙さからくるものだと思います。
すみませんでした。

一番重要なのは「アタマを真っ白」にする事なんです。

その手段は何でもいいんです。
性交だけでアタマが真っ白になれればいいんですけど、そうもいかない場合もあります。
以前は、私もぶるぅに対して「アタマを真っ白」にする手段として、性行をしていました。

前の記事にも書きましたが、ひょんな事からそれをしなくても「アタマが真っ白」な状態に出来たのです。
ウチのぶるぅは、それが言葉でした。「●●●●●●●●●」と伏字で書いた内容です。
ぶるぅにとって、そう呼ばれたくない一番の言葉。
でも、ぶるぅはそう呼ばれたかった。
それを止めていたのが、「理性という心のブレーキ」でした。
そう呼ばれてしまうと、今までの自分が無くなってしまうような感覚だったそうです。
だから、必死にそれを否定していた、と言ってました。
私からそう呼ばれるのも嫌だったようです。
自分が自分でなくなってしまう、今まで培ってきた関係が崩れてしまうことを恐れて、との事でした。

この話を聞いたとき、実はぶるぅの状態は「アタマが真っ白」の状態なんです。
だから「アタマが真っ白」でもちゃんと受け答えは出来るんです。
その後、少し経ってから、ぶるぅとその話をすると、全く覚えてなかったんです。これが。
その時はちょっと信じられませんでした。
そしてこの話をしているとき、その言葉で呼ばれたいとぶるぅ自身から切り出してきました。
自分の中で踏ん切りがついたのでしょう。
自分は「●●●●●●●●●●」なんだ、呼んでほしかった「●●●●●●●●●●」になったんだ、とばかりに
トランス状態、私の言う「アタマが真っ白」な状態になってしまいます。
時間や場所を問わず、です。
ぶるぅにとっては、これが、Fさんの言われる②の「興奮」になるのでしょうね。

だから、ウチの子に限って言えば、性行がメインにはならないということです。

調教経験がぶるぅだけの私では、他はどうだったという話はできません。
ただ、言えるのはどんな状況であっても、「アタマが真っ白」に持ち込む何かを考えれば良いということです。

だから、「イシキ」を薄めることが、「アタマが真っ白」というのではなく、「理性という心のブレーキ」を
緩めさせてあげることが、「アタマが真っ白」状態への道につながるということです。


> 「壁」の前にあるものは「アタマが真っ白(薄れゆくイシキ)」「羞恥心(興奮)」であり、その壁を乗り越えたとき、「イシキ」「羞恥心」は失われる。


壁の前にあるのは、イシキではなく、多分「理性」というしがらみなのかもしれません。
乗り越えてしまえば、「羞恥心」は薄くなるんだと思います。完全に無くなることはないと思います。
「アタマが真っ白」状態でも、恥ずかしがることはありました。
でも近い状態であることは確かですね。


> (「羞恥心」は「イシキ」に含めてもよいかと思います。)
> (「羞恥心」は失われるなら「興奮」も失われるか?と疑問も浮かびますが、「壁の向こう側」の興奮は羞恥心とはまた別のものとしたほうがよさそうな気がします。)
>
> 羞恥心は壁に近づく手段であると同時に壁の前で立ちふさがる障壁であるところがおもしろいですね。



羞恥心って確かに面白いと思います。
「アタマを真っ白」にする要因のひとつというのが。


Fさんのコメント、大変楽しく、こういった考え方もあるのだな、と感心させられました。
こういったコメント頂いたのも初めてですので、大変嬉しかったです。
読ませて頂き、自分の考えをも更に深める事ができました。
ありがとうございました。
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コメント
Fさん、コメントありがとうございます。

またまた難しい内容のコメント、ありがとうございます。


> ここからは私の見聞きしてきた経験による主観ですが、特にMのかたは①、②のどちらか一方、あるいは両方に当てはまる方が多いと感じます。
> 初めに欲求ありきとおもいます。
> BAさんはどのように思われますか?

この点は、賛同できます。
今後の記事で、それを書こうかと思ってたのですが…(笑)
そのお返事は、その時に詳しく書こうと思います。


> ですが、友人であったり、恋人であったり、親子であったり、師弟であったり、いろいろな人間関係がありますが、それでもやはりSMにおける主従の関係は特殊なものを感じざるを得ないですね。


SとMの世界って特殊だっていうのも分かります。
これも別の記事で書こうと思ってた内容でした(笑)
これもその時にキチンと書こうと思います。

先読み先読みされてる感じです(笑)
多分そうなるだろうな、っていう感じもあったのですけどね。

今回はこんな感じでご容赦下さい(笑)

今後もよろしくお願い致します。
BA | 2015.08.11 07:18 | 編集
こんばんは。ご返信ありがとうございます。

また考察の続き書き込みさせてください。



・洗脳か?


過去の記事の中に気になる描写があります。
「アタマの快楽 其の八」のなかで

>そして、三つ目は、ものすごく従順になったこと。

>アタマが真っ白状態では、理性がブレーキをかけることがないので、

>ぶるぅが本来望む主従の形になっている。

>ちゃんと主従の受け答えが出来るようになった。

>更に、私の意のままにコントロール出来るということ。




と、あります。

また、




>嫌がる内容には何かあると思うのがいいんだと考えた。

>そして、ぶるぅはカミングアウトした。

>そう言われたかったんだ、と。



この二つの部分です。


SMにおける主従の関係を、主側ではなく従側がこうありたいという形。それを普段は理性がブレーキをかけてできない。望んでいる、自身の欲求なのだけど、できない。「ある言葉」に関しても、本当はそう呼ばれたかった。しかし、やはり通常の状態では、できない。

望んでいたけれど、できない。
その「望み」はどうして生まれたのかという点に焦点を当てたいと思います。


それには理性というものがどうして必要なのかという点に私は重要なところがあると考えています。
理性には悪い点も上げられるでしょうけれど、それだけであるならば人は理性を身につけはしないだろうと思います。
理性は、子供のころは弱く、それこそ赤ん坊のころはないといってもいいですね。もう泣きたいときに泣く、笑いたいときに笑う。
少し大きくなってくるとそうはいかず、泣きたいのを我慢したり、したいことを我慢したり、理性によるブレーキを求められます。
ちゃんと理性を効かさないとどうなるか?親や周りの大人に叱られます。


大人になるとどうか。基本は同じですね。仕事をすれば責任がある。いやだなと思ってもそれを果たさなくてはならない。寝たいだけ寝たりはできないですね。遅刻は叱られます。仕事のミスも許されない。多少のお目こぼしはありますが・・・。
泣くことも許されない・・・とは言わないまでも、大人になって泣いてもよい場面は限られてますね。どこでも受け入れてもらえるわけではない。



こういった理性の働きを必要とする責任や約束事はたくさんありますが、それは社会にいる人にみなに平等に課せられているもの、みんな同じ、そう考えられています。
しかし、そうだろうかと。

①一つに、責任を果たす、仕事をする能力。技術というものがあるかどうか、理性がどれほど働き感情や欲求をコントロールできるか。能力はみなが同じ能力を持っているわけではありません。能力の高い人と能力の低い人のストレスは全く同じではないですね。

②二つ目に、迫りくる責任に対するプレッシャーの強弱です。遅刻しちゃってもいいや、後で叱られとけばいいさと気楽に考える人もいれば、明日はうまくやれるだろうか、遅刻したらどうしよう、ミスしたらどうしようと未来に対して強く不安に感ずる人。
責任に対するプレッシャーはみなが平等というわけではないですね。
この場合、後者のほうがストレスは多い。
この場合、社会の要求するものに真摯に応えたい気持ちが根底にあり、いわば「よい子」といえますね。


二つをまとめると、理性を必要とする責任ある社会活動においてよりストレスが強いのは、能力が低く、責任感があり、それゆえに不安が強い人ということになります。
①と②どちらもそろっている人もいれば片方だけの人もいると思いますが、「理性なんて捨てたいという欲求」は、理性を必要とする場面におけるストレスが強いほど大きくなることは自然だと思います。



ここからは私の見聞きしてきた経験による主観ですが、特にMのかたは①、②のどちらか一方、あるいは両方に当てはまる方が多いと感じます。
初めに欲求ありきとおもいます。
BAさんはどのように思われますか?



そうしてSMの関係についての考察に戻りますと、Mは(Sも)数ある選択肢の中からこの関係を選び、その関係を深めてゆきます。
そうして、理性のブレーキをとるところまでゆくケースもある。
理性を取り去ること、主従の受け答え、辱め・・・etc.
SMの関係を望み、築き、深め、主従関係を完成してゆく。そのプロセスを、欲求するものを得るために繰り返し繰り返し選択してゆく。これが洗脳ならば、世の中の望んで選択する人間関係のほとんどは洗脳でしょう。
(むしろ、社会的規範や経済的に縛り上げ、圧力を背景に役割と関係を決定し守らせるほうがよほど暴力的で洗脳といったマイナスの表現が似合う気もします。)




ですが、友人であったり、恋人であったり、親子であったり、師弟であったり、いろいろな人間関係がありますが、それでもやはりSMにおける主従の関係は特殊なものを感じざるを得ないですね。


主従という関係と理性(を捨てること)については深い関わりがあると思うのですが、長くなりましたのでまたの機会に書かせてください。






F | 2015.08.10 00:26 | 編集
Fさん、コメントありがとうございます。

キチンと読んでくださり、感謝しております。
また、私も返信の記事を書きながら、「あれ?」と思うこともあり、Fさんの指摘にて気づく体たらく。
ご容赦下さい。

> 理性を失った状態。

ここに書かれた点、内容は省略致しますが、返信を書きながら、「これもあるよなぁ」と考えていた事でした。
でも、「恐怖」から来る理性を失った状態は、ご指摘通り違うと思います。

パニックによる、理性の喪失は、大体において「動けなくなる」か「覚えていないで動く」のどちらかだと思います。
ぶるぅの置かれた状況とは違うと思います。言葉での表現は難しいですけど。

「アタマが真っ白」の下りですが、「喝」が出てくるとは思いませんでした(笑)
その話に乗るのであれば、悟っていない者が「アタマを真っ白」にする事をやろうとしても、
悟っていない以上、それは単なる言葉であり、悟りからくる状態ではないということです。

「喝」の話でこんな話がありましたよね、確か。




> BAさんの記事の中で、目隠しをして恐怖で体が縮こまらないようにスパンキングする描写がありますよね。そしてその状態で意表のついた場所に打つ。
> 「恐怖で体が縮こまる」状態は具合が悪いように、私も思います。壁を越えるには・・・。このあたり、あらためてBAさんはどのように思われるでしょうか?

目で見てしまうとその先入観が強くなり、それに対するぶるぅ自身の防御を防ぐ意味での、目隠しだと思ってください。
「喝」の話に乗って書くなら、悟った状態で「喝」を唱えられる状態にしたいが為の行動です。
こんな感じで良かったでしょうか?


>
>
> ①についてのエピソード全体が記憶から抜ける現象ですが、精神医学の用語ですと「解離性障害」の状態は近いものがあると思います。しかし、イメージの問題ですが、病気を指す単語でこの状態を表現して解った気になることには抵抗があります。(しかし、ヒントはあると思いますが・・・。特に「葛藤」について)

確かに病気で片付けてしまうと、それで終わりという感があります。
でもこれは、この後の記事で書くつもりですが、誰にでも出来ることなんだと思ってますので、
そうなると全員が病気ということになってしまいます。
病気と書くよりは、後述されている「潜在意識」の方がいいような気がします。


> またエピソード全体の記憶が抜けるほどではなくとも、「がくがくと痙攣していっている状態」、これも記憶を残してその状態に至ることはなかなか難しく、これを解離性障害と表現するならば、それは頻度が高いとはいえませんが、ある程度の人々が体験していることだと思います。

ガクガクになるほどの状態であれば、もう「アタマが真っ白」に近いと思います。
だからちょっとした事でそこにはたどり着けるような感じします、私としては。

あまり学の無い私がかける範囲は限られていますので、その点はご容赦下さい。

今後もよろしくお願い致します。

更新は、ちょっと滞るかもしれませんが、もうちょっと書きたい内容もあるので、気長にお待ち下さい。
(……、あんまり難しいと需要あるのかも不安ですが(笑))
BA | 2015.08.03 22:20 | 編集
こんばんは。
ご丁寧なご返信ありがとうございます。


前回の書き込みなのですが、「アタマの快楽 其の二」までの時点での現状のまとめ、整理のようなものを書かせていただきました。
痛みについてや「ある言葉」については順を追ってまた考察を書き込ませていただければ・・・と思っておりました。


でも、そこまでまじめに順を追う必要もないですよね。話の流れるままに意見交換できたらと思います。



①「イシキ」という言葉について

「イシキ」という言葉はまったくの造語です。それはBAさんの記事にあります一連の心の動きを説明、描写してゆくに当たりまして、適切に一語で表現する言葉が現状見当たらないと思ってのことでした。

理性というブレーキが取れた状態というのは確かにその通りだと思います。しかしながら、それだけで表現するにはほかの要素が含まれた状態だと思います。


理性を失った状態。
たとえば、登山の途中で熊に出会い、パニックを起こし、慌てふためき山を駆け下りた・・・。熊に出会ったらあわてて逃げてはだめという知識はあったが、そのときは恐怖で理性なんて吹き飛んでしまい、無我夢中、頭は真っ白になって逃げた。どこをどう下ったのかは覚えてはいない。気がつくとふもとに出ていた。


と、これは理性という語句を使った例文ですが、BAさんの記事に書かれているぶるぅさんの状態には特異なところがあります。
それは壁の向こう側、理性のブレーキの取れた先、そこからしばらくの一連の言動、行動の記憶が抜けている点です。
上記の例文では山道をどこをどうやって下ったかは覚えてないのですが、熊に出会ったこと、驚き恐怖したこと、山を下ったことは覚えています。
○○をきっかけに理性を失い・・・と述べることができる状態です。
しかし、記事に書かれているぶるぅさんの状態は、壁から壁の向こう側にゆく(そしてその先に進んだ?)エピソード全体が記憶からすっぽり抜け落ちている。これは一般によく見聞きする状態とは異なると思います。
上記の例文だと熊に出会ったことも山を下ったことも、後から冷静になっても覚えていない、気がつくと山のふもとにいた状態ですね。本人にしてみればまるで山のふもとにテレポートしたような。


そこで理性しがらみが取れた・・・にプラスした「何か」を含有した意味を込めて「イシキ」という表現を仮においてみました。もちろん即席で「イシキ」と呼んでみているだけで、「イシキ」という言葉の定義自体はっきりしないものです。もちろん「イシキ」という言葉の意味に「理性」は含まれていると思います。
ただ、通常ではない状態。不思議な状態ですよね。通常の状態の何かをなくした状態、その何かについての表現です。



②「アタマが真っ白」について


>一番重要なのは「アタマを真っ白」にすることなんです。


私もそこが重要な鍵になっているところだと思います。
「ある言葉」によって壁を越えるだとか、セックスによって、とか、痛みによって・・・、と、こうすればいいんだと一対一対応で表現されるべきものではなく、過程はともかく「アタマを真っ白」にした状態。(この言葉もちゃんと定義を述べるとしたら難しい。)


昔の中国の禅僧の話ですが、「師匠からの「渇」の一声で悟った」なんて話は多いです。
「渇」の意味、鞭を振るう意味を問うよりも、過程よりも、その状態になることが重要と感じます。

BAさんの記事の中で、目隠しをして恐怖で体が縮こまらないようにスパンキングする描写がありますよね。そしてその状態で意表のついた場所に打つ。
「恐怖で体が縮こまる」状態は具合が悪いように、私も思います。壁を越えるには・・・。このあたり、あらためてBAさんはどのように思われるでしょうか?






①についてのエピソード全体が記憶から抜ける現象ですが、精神医学の用語ですと「解離性障害」の状態は近いものがあると思います。しかし、イメージの問題ですが、病気を指す単語でこの状態を表現して解った気になることには抵抗があります。(しかし、ヒントはあると思いますが・・・。特に「葛藤」について)

BAさんも、記事の中で、もうひとりの人格が存在するのでは、と疑問がよぎられている描写がありましたね。

またエピソード全体の記憶が抜けるほどではなくとも、「がくがくと痙攣していっている状態」、これも記憶を残してその状態に至ることはなかなか難しく、これを解離性障害と表現するならば、それは頻度が高いとはいえませんが、ある程度の人々が体験していることだと思います。





(新しく書かれていた其の十の記事も読みました。それはまるで潜在意識そのものと対峙しているような感を受けました。)
F | 2015.08.01 01:09 | 編集
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